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Selfishly

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久遠の輪舞(後編)act4



~~~~~『 久遠の輪舞・後編 』act4~~~~~




 ~ agnus Dei ~ 《神の子羊》


 遠い異国の地であっても、恵みの雨は等しく降り注がれる。
 湿気を含んだ涼風が、眠りに就いていたエドワードの覚醒をゆっくりと促してくる。

 ーーー 雨は嫌いだった。 ずっと…ずっと ーーー

 そんな想いと一緒に、過去での回想がゆったりとエドワードを包み込んでいく。




 ***



 まだ弟の失われた体と、生身の自分の手足を取り戻す日々を過ごしていた頃。
 雨はずっと天敵だった。
 旅の計画に水を差して、行方を阻む。
 そして、弟の身体に悪影響を生むし、自分の失った手足は、不在証明を訴えるように痛むし。
 雪といい、雨といい、水気を含むものは、この頃ははっきりと嫌いだった。

 
 長雨で計画の変更を余儀なくされ、一旦情報収集しにと立ち寄った東方の司令部で、
 エドワードはついでにと定期報告を持ち込んでいた。
 
「鋼の。 爪を噛むのは止めなさい。 形が悪くなる」
 集中できないまま、渡された文献を読んでいると、ロイのそんな言葉で口元に持っていた指に気づく。
「…べっつに女じゃないんだ。 爪の形くらい、どうてことないだろ」
 素っ気なく言い返して、邪魔をするなとばかりに睨んでやる。
 そんなエドワードに、ロイは大袈裟に嘆息を吐いてみせ、静かに立ち上がって、
 エドワードに近づいてくる。
「な、なんだよ?」
 もしかしたら、口の悪い自分に腹を立てたのだろうか?
 瞬間浮かんだ考えは、すぐさま心の中で否定が入る。
 ロイは滅多な事では怒るような人間ではない。 エドワードの悪態や不遜な態度等、
 ロイにとってはいつもの事だろう。
 なら、何なんだ?と、じっと相手の動きを追っていると。
 ソファーに腰を掛けていたエドワードを端に詰めさすと、ストンと横に並んで座り込んできた。
 そして…。
「わぁ! 何すんだよ、何を!」
 エドワードが慌てたのも仕方が無い。 何故なら、ロイは横に座ったかと思うと、
 強引にエドワードの頭を引寄せて、膝枕をさせたのだから。
「少し休みなさい。 そんな隈ばかり目の下に飼ってては、効率が悪くなるばかりだろうが」
 口調は優しいが、拒否を許さない力強い腕で、エドワードを押さえ込んでは、
 寝ろとばかりに目を手の平で覆ってしまう。
「ちょっ! いいよ、自分で休むから! 離せ…」
「静かにしなさい」
 ピシャリと言い放たれた言葉に、思わず口を噤む。
 ロイの言葉は、特に厳しく言ったと言うわけでなくても、妙に人を従わせるものがある。 
 ロイの言葉に固まってしまったエドワードの様子に、笑っているのが、気配で伝わってくる。
 そして、それを宥める為か、胸の辺りをポンポンと軽く叩いて安心させるような仕草をした。
「…何か話せよ。 黙られると落ち着かない」
 妙な居心地の悪さに、思わずそう口にしてしまう。
「話なんかしたら、余計に休めなくなるだろうが」
 苦笑と呆れが滲んだ声が、優しく上から降ってくる。
「…そうだな。君の母君は、やんちゃな君を寝かしつけるのにどんな魔法を使っていたんだい?」
 優しく覆われている手の平の中で、エドワードがパチクリと瞬きをした。
 それが妙にくすぐったい感覚を生んで、ロイを更に優しい気持ちにさせる。
 薄く開かれた唇が何度か動く様子に、エドワードも戸惑っているのが見て取れた。
 それもそうだろう…。 ロイだって、自分の行動が不思議だと思っているのだから。
 
 入って来た時から、エドワードの苛々した様子は伝わってきていた。
 強がりな彼の事だから、極力気づかせないように振舞ってはいたが、荒んだ気配と、
 疲れた心身は、端々から零れ落ちていた。 
 ロイがそう指摘すれば、素直で無い彼の事だから、雨の所為だとでも言い返してきただろう。
 確かに雨だと、彼らの計画にも体調にも不具合が出るのだろうが、
 今のエドワードの疲弊はそれだけではない。
 旅を始めて、そろそろ3年が過ぎようとしている。
 今だ変わらぬ自分達の捗捗しくない日々に疲れてきている。
 それはロイの人生でも、思い当たるが時があった事だ。
 だから気づいたら、ペンを置いて立ち上がっていた。
 少しでも、この強情な子供を休ませてやりたいと思ったから。

 ロイのそんな思案は、躊躇いがちに答えられたエドワードの言葉で、現実に戻ってくる。
「…… 母さんは、良く…子守唄を歌ってくれてた。
 俺やアルが、なかなか寝ないで暴れていると、優しく笑って。
 母さんの歌が始まると、不思議な事に気持ちが落ち着いてきて、何だか眠くなってくるんだ」

 ーーー 自分は何故こんな話を、
         ロイに話しているのだろう… ーーー

 幼少の自分の話など、今の二人の関係には関わりが無い。
 なのに思わず話してしまったのは…、今日のこの男が、妙に優しいからだ。
 だから、だから、調子が狂ってしまって…。

「そうか、子守唄をね。
 が、残念ながら子守唄は、もう忘れてしまったな」
 その返答に、思わずギョッとしてしまう。 覚えていたら、歌ってくれるとでも言うのだろうか…。
 そんなエドワードの驚きに答えるようなロイの次の言葉に、
 塞がれ閉じていた目を何度も瞬かせてしまう。
 手の平の中で、目を瞬かれているのがこそばゆいのか、ロイの手が小さく震える。
「子守唄でなくて申し訳ないが、私が…良く口ずさんでいた歌なら覚えているんでね」
 ~ Tomorrow is dreamt. ~
 と囁くように歌い出された曲…。
 エドワードには聞き覚えがない曲だったが、疲れた体と心にじんわりと
 沁み込んでくるような感覚が生まれてくる。
 夢も希望も失った男が、失意の日々を過ごしている歌。
 哀しい歌の筈なのに、この男が歌う今、何故か酷く優しい歌に聞こえてくる。 


 辛くて、哀しくて、嫌で嫌で仕方ない日々。
 それでも、明日を夢見て、今日を生き延びる。
 明日には必ず、自分の夢見た日々が手に入る。
 だからもう1日だけ、生きてみよう。


 繰り返されるフレーズを聞きながら、エドワードはゆっくりと意識を眠りへと移行させていく。
 そして…、この男は、どこで、どんな気持ちで、この歌を口ずさみ続けてきたのだろうか…と、
 少しの悲しみを思いながら。

「大丈夫だ。 君たちの強さは、私が1番解って、信じている。
 だから今は、暫し休息を取りなさい」

 意識が、完全に優しい闇の世界に捉えられる間際、そんなセリフが、
 まるで歌詞の1つのようにエドワードの世界に落ちてきた。




 ーーー あの時から、少しずつ…少しずつ、
      好きになっていったのかも知れない。

     自分に降り注ぐ、優しい雨の日を… ーーー 


 
 

 ***

 温かい思い出の記憶のたゆといから目覚めると、部屋には静けさの中に、
 優しい雨音が響いていた。
 エドワードは勢い良く起きると、うーんと大きく背伸びをした。
「さぁ、さっさと起きるか」
 と独りごちて裸足のまま、部屋に備え付けの洗面台へ行く。
 故郷では顔を洗う時には、洗面所や水周りに行っていたが、ここでは瀟洒な鏡台の横に、
 水差しと鉢がある。 それに水を張って顔を洗うのだ。
 さっぱりした顔で、その横の鏡台で身だしなみを整える。
 黒の長髪にも、黒の双眸にも大分と慣れてきた。 ここでは、エドワードや
 アルフォンスのような明るい髪や瞳は目立ち過ぎてしまう。
 故郷では珍しい黒色1色も、ここではそれが当たり前なのだ。
 クローゼット…ここでは箪笥と呼ぶ引き出しから衣服を無造作に選ぶと、
 手早く着替えを終わらせる。 来た当初は、そんな一連の行動にも、何やかやと従者が入って来ては、
 手を貸そうとするから、言葉が通じない不自由さもあって、かなり辟易させられた。
 ーーー もう、3年だもんな ーーー
 言葉も今では、全く不自由がない程にも使える。 慣れない生活習慣の違いも身に馴染んできた。 
 ここ後宮では、外での情勢は余り聞こえて来ない。
 来たばかりの頃こそ、毎日の生活に慣れるのに必死だったから気が付かずに居たが、
 今はそれがここでの友人…リンの策略なのではないかと思うようになっていた。
 そのエドワードの疑惑は、半分正しく半分は誤解だ。
 後宮自体、世間の世界からは隔離され、守られている場所だから、
 市井の情勢がもともと伝わりにくい場所なのだ。
 ここでは、未来の后達や、皇子が憂い無く健やかに生活を営めるように
 配慮をし尽くされている場所なのだから。
 それでもやはり帝王教育の為に、多くの優秀な賢者と呼ばれる人々や、
 知恵者が訪れる場所でも有るから、全く外部と遮断されているわけではない。
 エドワードとアルフォンスは、その後宮の中でも更に奥まった、皇族のみ居住を構える宮で暮らしている。
 今のここには、リンの兄弟たちが多く暮らしている。
 リンが異国から帰還して、その武勇を認められ皇帝の位に就いた時、
 それまで暮らしていた前皇帝の后達は、別の宮へと引き上げた。
 リンの子供が生まれるまでリンの兄弟たちは、継承者候補としてこの後宮で暮らし、
 後継者が誕生すれば、臣下となってリンを助ける者達になるのだそうだ。
 ここで、エドワードとアルフォンスは皇子達や臣下の子弟の外語の教師と、
 リンが選抜した民間の人々の教育を行って暮らしている。 向うの国の在り方や、政治の仕組み、
 貨幣の価値や流通等、様々な生活様式も含め、教える事は多岐に渡っている。
 先鋭的な考えを持つリンは、他国を漫遊中に見聞した事を無駄にする気はないようだった。
「どんな大国も、強国も、一国ではいずれは滅びの道を辿る」
 それがリンの持論だ。


「おっはよぉ、アル」
 小ぶりな部屋に、いつものように入っていくと、先に席に付いていたアルフォンスが、
 笑顔で返してくる。
「おはよう兄さん。 良く寝てたみたいだね」
「あぁ…、うん。 ちょっと懐かしい夢を見てたかも」
 そう告げたエドワードの瞳に刹那、寂しげな色が浮かぶのを、アルフォンスは気づかぬ振りをしておく。
 ここでの生活は順調で、不満や困る事など1つもない。 それどころか、かなり厚遇され、
 恵まれていると言えるだろう。
 それもこれも、ひょんな事から同伴者となったリンのおかげだ。
 つれなく断る兄、エドワードの態度にもめげずに、何度、何十度と無く自国へと誘い、
 とうとう云と言わせたのだから。
 リンは連れ帰った二人を、遠縁の皇族の血筋だと伝えている。
 古くからの大国だから、隣国に嫁いだり、養子に貰われていったりした者達も数多く居る。
 外つ国には、その血脈の者達が多数いるとなれば、二人の事をそう紹介しておけば、丁寧に扱われる。
 
「あれっ? リンの奴、寝坊か?」
 いつも居るもう一人の姿が見えない事に気づいたエドワードが、アルフォンスに問いかけてくる。
「何を言ってんの、兄さんじゃ有るまいし。 
 今日は朝議があるからって、もう出て行かれたよ。 兄さんには昼食の時に会おうってさ」
「ふ~ん」
 気の無い様子で答えて、エドワードが食事に手を付けて行くのを見ながら、小さな溜息を吐く。
 この部屋で食事をするのは、3人だけだ。 皇帝と同じ物を、同じ場所で食べる。
 これがどれ程の意味を持つのかは、今なら二人とも解っている。 私的な席に同席出来るのは、
 本来なら特別な人々のみだ。 皇后や皇太子などの。
 皇子や兄弟であっても、皇帝となった人とは同席は許されていない。
 最初に席を同席させるとリンが言った時にも、臣下の者達の驚きは大きかった。
 が所詮、絶対君主の言葉に逆らえるはずも無く、それ以来こうして、
 3人で食事を取る日々が続いている。 忙しい皇帝が、同席するのは1日に1回有るか無いかだが、
 それでも彼の立場を考えれば、多い方だろう。
 ーーー それだけ大切にしているって、アピールなんだろうけど ーーー
 右も左も判らぬ地で、放り出されるのも困るが、過度に過ぎる扱いも、少々困りものだ。
 リンがエドワード達…否、正確に言えば兄、エドワードの存在を大切に扱えば扱うほど、
 振り解けない紐に絡め捕られていきそうで、時に恐ろしくなっていく。
 兄は、必ず帰る時が来る事を…、迎えに来る事を信じて待っている。
 そんな兄と、リンの庇護が衝突する日が来ない事を、今のアルフォンスには願うしかない。


 朝食が終わると、それぞれの生徒の待つ部屋へと向かう。
 さすがに英才教育を施されている彼ら達だから、覚えは大変良い。 それに幼い者も多いから、
 母親と離れて暮らすのは寂しさが募るのか、歳若い二人に良く懐いてくれている。
 
 講義が終わり戻る道すがら、一緒に帰ると強請る皇子の一人と手を繋ぎ、
 ゆっくりと中庭を散策しながら歩いていく。
「ねぇ師父様、1つお伺いしても良いですか?」
 自分の背の半分も無い子供が、畏まった言葉使いをしてくる度に、生まれの良さが感じられる。
「ん? どうした? 今日の講義で、判んないとこでもあったか?」
 笑いながら聞き返してやると、小さな皇子は恥かしそうに頬を染めて、エドワードを見上げている。
 この異国の雰囲気を持った教師は、皇子たちの密かな憧れだ。
 上品とは言い難いが、それでも周囲に居る者達のように、自分たちに壁を作って接するような事が無い。
 褒め、時には叱り。 そして、寂しい時には、不思議と気づいて優しい言葉や、抱擁をくれる。
 皇女を受け持っている師父の弟の方も、とても人気が高いと聞いているから、師父の国の方は皆、
 こんな風に優しい人々ばかりなのかも知れない。

 そんな事を思いながら、皇子が見上げているとは、当然気づいていないエドワードが、
 聞きにくい事なのかと、屈んで視線を合わせて伺って来る。
「どうした? いいぞ、何を聞いても?」
 綺麗な顔が間近になって、皇子の顔は更に赤くなり、とうとう下に俯いてしまった。
「あ、あのぉ…」
「うん? どうした?」
 子供の扱いにも大分と慣れてきたエドワードは、辛抱強く話し出すのを待ってやる。
 暫く、もじもじと身体を動かしていたが、決心が付いたのか、きっぱりと顔を上げて、
 エドワードの瞳を覗き込んでくる。
「師父。 師父と陛下の御成婚式は、いつなのでしょう?」
「成婚式…?」
 エドワードはその単語を、頭の中の引き出しで調べてみる。
 意味はすぐに出てきたが、その当事者の指すところの意味が判らない。
「えっと? 誰の?」
 そうエドワードが聞き返すと、今度は皇子が不思議そうな表情で繰り返してくる。
「勿論、師父と陛下のです」
 その返答に、エドワードは暫しの沈黙を漂わせる。
「俺と、リン…、いや陛下のぉ?」
「はい。 皆が噂しております。 そろそろだと皆が言うので、いつなのかをお伺いして、
 お祝いの準備をしなくてはいけませんから」



 ***

「陛下は在室されているか?」
 リンの執務室の前に立つ護衛に、そう聞いてみると、返答は直ぐに帰ってきた。
「はい。 只今執務中でございます」
「中に入らせて貰っても、大丈夫かな?」
「はい、勿論で御座います。 洸麒様がお越しの際は、いつ何時でもお通しして良いと、
 申し付けられておりますから」
 そう恭しく扉を開かれると、エドワードの言葉も詰まってしまう。
 洸麒とは、リンが考えたエドワードのシン国での名前だ。 ちなみにアルフォンスは、
 望天吼と名づけられ、意味が判った時には憮然となった。
 どちらも、この国での聖獣の名で、そんな大層な名前を持つ二人の高貴な生まれを、
 皆があれこれと想像したとしても、仕方ない。
 そしてそれに輪を掛けたリンのエドワードの対応が、更に信憑性を持って広がる原因にもなっているのだ。

「やあ洸麒、珍しいな。ここへ顔を出してくれるなんて」
 にこやかなリンの笑みに迎えられると、お定まりのように、周囲にいる人々が席を外して、
 部屋を出て行く。
 人が去ったのを確認して、エドワードは口を開く。
「お前なぁ…。 いい加減、根も葉もない、出鱈目話を広げるんじゃねぇ!」
「出鱈目? 何の事だ?」
 はてと、わざとらしい仕草を見せては、にやにやと笑っている。 それが癇に障って、
 エドワードは抑えていた腹立ちを、ぶちまける。
「神族の末裔だの、聖獣の変化だとか。 ここに至っては、成婚式だぁ?
 ふざけんのも大概にしろよな!」
「おや耳が早いな。 もう話が耳に入ったのか」
 エドワードの怒りなど気にもせず、愉しそうに話す相手に、がっくりと力が抜ける。
「お前…。 もう、遊びで済ませれる立場じゃないんだぜ?
 少しは周りの迷惑考えて、言動に気をつけろよ」
 そのエドワードの忠告に、リンが小さく目を瞠って、その後可笑しそうに笑い返してくる。
『エドにそんな説教をされるとわネ』
 良く聞いていた訛りのあるアメストリス語。 時折、思い出したようにリンは、
 アメストリス語で語ってくる。
 最初の1年程は、3人で居る時にはアメストリス語が主な会話だったが
、ここ最近は妙な訛りの言葉を聞くよりも、まともなシン語で話す事が増えていた。 
「威厳無くなるから、その言葉でしゃべんな」
 ぶっすりとした口調で、そう言い返してやると、肩を竦めて見せてくる。
「兎に角! つまらない冗談をこれ以上増やすなよ! いいな」
 きつい口調で念を押すエドワードに、是とも否とも答えず、リンはそっぽを向いてるままだ。
 ちらりと見た置時計が、次の講義の時間を示し始めている。
 エドワードは、はぁーと大きなため息を吐いて、最後に「判ったな」と言い置いて、部屋を後にする。



 凛とした麗人の姿が扉から消え去ると、リンは残像に語りかけるように独り言を呟いた。
「なぁ、エドワード。 なら、冗談じゃなければ良い訳だ」
 そう呟くと、ノックされた扉の方に、入室の許可を与える言葉を告げる。
「失礼致します」 
 礼をして入って来たのは、エドワードが来るまで居た者達ではなく、リンが信を置いている高官の一人だ。
「高官長か。 来たのか?」
「はい。 まだ親書の形ではありますが、陛下の御高察通り、あちらの方から、親善使節の打診が参りました」
「…思ったより早かったな。
 それだけあちらも必死だと言うわけだ」
 もう1、2年は引き伸ばせると思っていたが、のんびりとしてはおれそうもない。
「検討した後に、返事をすると言え。
 そして、準備は内密に極秘で行え。 関わる者にも、決して他言無用を徹底し、
 決して知られずに。特に後宮にはな」
「はっ。 心得ております」
「もし一言でもこの話に関する話が広がってみろ、お前の立場は…。
 判っているな」
「も、勿論でございます! 肝に銘じて、そのような事にならぬよう身命かけて徹底いたします」
 若い皇帝ではあるが、その統括力といい、頭の冴えといい、歴代の皇帝の中でも群を抜いている。 
 そして、冷徹さと非道とも思える程の冷酷さも…。
 皇子たちが後宮に集められているのも、余計な策術を生み出せないようにする為の策の1つだ。
 もし、策謀の匂いがほんの少しでも浮かび上がったりした時には、
 誰一人あそこから生きて出ては来れないだろう…。
 だからと言って、現皇帝を非難する気など毛頭ない。
 その位の用心深さが無ければ、後押しの無い若い皇帝など、
 1日も玉座に座り続ける事は出来ないからだ。
 シンの国では、玉座は血に塗れた上で成り立っているのだから。





 ***
 
 まだ一緒に、異国を旅していた頃。
 リンはずっとエドワードを見続けていた。
 最初は、自分の国には無い色を具えている容姿が、珍しかったのもあった。
 無鉄砲に思える行動も、きちんと状況を把握して取られており、
 早すぎる頭の回転には驚かされる事もしばしばだった。
 そして、聡明な癖に妙に抜けて鈍感な性質。
 がむしゃらな程の前向きさは、リンの周りには居なかったタイプだ。
『面白い奴だな』と思って付き纏っていると、その内、目が離せなくなった。
 そして気づけば惹かれていた。

 惹かれれば、欲しくなる。
 その欲しくなるが、恋情付きだと判ったのは、エドワードの向うに一人の存在を感じた時だ。
 エドワードが自分の存在を危うくしてでも、守ろうと、力になろうとしている相手が居る事を知った時。 
 腸が煮えくり返りそうな感覚がリンを襲い。 自分が、この青年に恋をしている事を自覚した。
 自覚した途端、心底エドワードの相手に嫉妬し、妬み、羨んだ。
 これ程の存在に、そこまで想われる僥倖を、独り占めしている男に。
 だから、じっと時を待っていた。
 エドワードがいずれ、この国で追い詰められる事になることは、内紛の多い国柄、視えていたから。
 その時が少しでも早く来るように、リンは付き従う隠密達の力も貸してやって、
 兄弟の行動を助けてやったりもした。
 そして、行動の大詰めが近づいてくる少し前。
 エドワードは、大輪の華を咲かせ始めた。
 それが何によって、もたらされるのかは、探らなくても判る。
 判りたくも無かったのに…。


「エド、そろそろこの国を出た方が、いいゾ」
「…判ってる。 後少し、後少しで計画が動き出せるんだ」
 エドワード達が各地の同志と企んでいる、軍権力の転覆は刻一刻と形を整え始めている。
 その後のエドワード達自身の計画を聞かされた時、思わず心の中で舌打ちをした。
 足枷になる自分達の存在を、あっさりと抹消しようとしているエドワードにも腹が立ったが、
 そこまでされて尚、受身の相手には、殺意さえ湧いた。
 が、計画は順調に進んでくれれば良いのだ。 ここはアイツのテリトリーだ。
 まずはそこから、連れ出す算段だけ付けれれば、後はリンの思惑通りに進んでいくのだから。
 
 市井のマスメディアと、市政者の協力を得。
 軍からは、北方の女将軍の後押しを筆頭に、各司令部の支援で集めた協力者を、
 アメストリスの全土に蜘蛛の糸のように張り巡らしている。 後は時機を視て、行動に移るだけだ。
 そして、実行の日が決まり、近付いていくほど、エドワードの表情に翳が濃くなっていく。 
「俺、ちょっと明日、出かけてくるわ」
 笑いを象りながら、少しも楽しそうでなく、そう告げたエドワードの様子で、
 リンは待ち焦がれた日が、漸くやってきた事を察した。
「リン。 その後の事だけど、頼むな」
 そうエドワードに告げて貰えるほどには、リンはエドワードの信頼を勝ち得ていた。
 他国の情勢を、「大変そうだから助けてやる」の一言で、兄弟を助け、時には支えてくれたリンを、
 エドワードが懐に入れるのは、彼の性格上当然だろう。
 頑固で強情で疑い深い癖に、情の深い彼は、一度信頼を持つと疑うことをしない、潔く愚かな賢者だ。
「判ってル。 エドは心配せズ、やるべき事をやってこイ」
 真摯な表情で送り出す内心では、あの男に別れを告げに行くエドワードに笑顔だった。

 あの男の元に行くエドワードを笑顔で送り出した事など、これが最初で最後だろう。


 ***

 それからの数年、何一つ進展しないまま来ているのは、甘く見ていたエドワードの信頼の深さかも知れない。
 皇帝となったリンに、純粋な信頼を向けてくれる者など、居るわけも無く、望む事も愚かだ。 
 が、エドワードだけは、リンの地位が変わっても、立場が変わっても、変わらぬ親愛を向けてくれる。
 それがどれ程、尊いかを実感すればする程、失うのが惜しくなって、ずるずると来てしまったが…それも、
 そろそろ止めなくてはならないだろう。 時を失えば、全てが水泡に帰す。
 特にあちらが動き出したとなると、残された時間は、もう余り無いだろうから…。

「陛下?」
 話の最中に黙り込んだリンを訝しんで、控えめに声を掛けてくる。
「いや、頼んだぞ。 で、出たら典楽長を呼んでいると伝えてくれ」
「はい、判りました」
 そう告げ、下がって行って暫くすると、呼び出した相手が到着した事を伝えられる。
「入れ」
「失礼致します」
 先ほどの高官長よりも、やや煌びやかな服装の相手が、畏まった表情で入室してくる。
 リンの市政になってから、蔑ろにされがちだった典楽長だ。
 急な予告無しの呼び出しに、次は何を命じられるのかと、ビクビクしている事だろう。
「急な呼び出しで申し訳ないな」
 そう鷹揚に、労いの言葉をかけてやると、大袈裟なくらい平身低頭する。
「とんでもございません。 我らの時間は、全て陛下の御為のもの、いついかなるお召しでも、飛んで参ります」
「そう改まられ過ぎても困るが、確かに事は急を要する事だ。
 そなたの才幹を遺憾なく、発揮して貰いたくてな」
 褒め言葉にも聞こえる言葉に、典楽長の頬がサッーと明るく色付く。
「私目で出来ます事でしたら、何なりと。
 陛下のお望みを叶える為でしたら、骨身を惜しみませんぞ」
 油断無く閃く目の奥では、どんな都合の良い算段が組み立てられているのか…。
 うんざりとそう思いながらも、リンは表面上親しみを持った、にこやかな笑みで頷いてみせる。
「そなたの忠誠心を見込んで、1つ頼まれてくれるか?」
「はい! 勿論。
 で…、どのような事を…?」
 内容も聞かずに、調子の良い返事を返す男に、リンの侮蔑は広がる一方だ。
「何、そう対した事ではないが。
 皇后宮の改築をしたとして、どれ位日数がかかる?」
 その言葉に、ぎょっとしたように目を瞠ってリンを見返してくる。
「こ、皇后宮で…御座いますか?」
「ああ、どれ位で手入れできる」
「し、しかし、一体どなたの為に…」
 リンには正妃がいない。 後宮の后妃達にも懐妊した等の噂も無ければ、
 寵姫が現れたとの情報も入っていないが…。
 もしそれが本当なら、典楽庁の与り知らぬ内に事が進んでいる事になり、重問題だ。
「ああ、近々皇后を娶ろうかと思っているんだが、構わないな?」
 訊ねる風で、表情は揺らがぬ強さを示している。
「とんでも御座いません! 皇帝が皇后を娶ると成れば、国の一大事ですぞ!!
 それを市井の輩のように、簡単に決めるなどと…。 これだけは陛下の一存とは言え、
 決してお認めは出来ません!」
 妙な使命感に燃えている相手を、リンは酷くつまらなそうに見つめ、深い嘆息を吐き出す。
「そうか…無理か」
「当然で御座います。 お立場をお考え下さい」
 典楽長が優越感に浸れたのは、ほんの僅かな間だけだった。
「そうか仕方ない。 お前は解任、いや皇帝への叛逆罪で投獄だ」
「な!! ど、どのような理由で、私が謀反等と!
 陛下はお気でも違われたのですか!!」
 真っ青な顔色で騒ぎ立てる典楽長を、リンは醒めた視線で眺め、一言名を上げる。
「ランファン!」
 その呼びかけに間をおかず、続き部屋の扉から、侍従の格好をした女性が忍ぶように入ってくる。
「はい、お呼びでしょうか?」
「ここの典楽長が、自分は反逆者ではないと騒ぐのでな。
 1つ話してやってくれ」
 その言葉を合図に、ランファンと呼ばれた女性は、すらすらと淀みなく報告を始めた。
「某日、典楽庁内で催された宴席の上で、陛下を非難する声を高々と上げ、仲間に同意を呼びかける。 
 その後の某日、同盟者と名をうって、陛下の施政を非難する文章を回覧する。
 閲覧者25名、回答協力者5名。
 後宮の皇子の一人と連絡を取ろうと、試みるが防がれ失敗に終わる。
 その時の間者は死亡。 更に某日…」
「もういい、ランファン」
 真っ青な表情で、膝を付き崩れ落ちている相手を見て、リンはそう声をかける。
「どうだ? これでも自分は忠誠心厚い臣下だと言い切るか?」
 ノロノロと顔を上げた典楽長が非難を交えた瞳で、リンを見つめ返してくる。
「協力者5人は、明日にでも皇宮から姿を消す。
 そして、可哀相だが、お前らが担ぎ上げようとしていた皇子も、無事には済ませ無くなったな」
 その残酷な言葉を、躊躇い無く告げてくる相手に、膝ま付く男は、ガタガタと震え出した。
 そして、男に与える恐怖の度合いを測って、リンは優しく話し出す。
「が、お前の功績を買って、1つだけ助かる道を作ってやろう」
 掛けられたその言葉に、縋るような表情で見返してくる。
「私が迎える皇后の為にも、骨を折ってくれるな?」
 ぞっとするような笑みで告げられた言葉に、頷く以外の選択は無かった。

 
 その後、会見の間に十も老け込んだように見える典楽長は、肩を落としてトボトボと去って行った。

「宜しかったので?」
 罪に問わず戻した事を言外に告げて、ランファンが伺って来る。
「ああ、構わないさ。 事が終わるまで、働いて貰わねばな。
 腐っても、皇宮で長年勤めていた者だ。 あれの人脈を使わせてもらわない手は無いからな」
 表を司るのが高官達なら、裏を操るのが彼らだ。
 華美が好きだった前皇帝時代に、散々と甘い汁を吸い続けたのだから、
 少しくらい骨を折って貰っても、問題はない。

 ーーー まぁ、少し位かは、相手の思うところ次第だがなーー

 ちゃんと飴と鞭は使い分けて、事が成就した暁には、后妃達の選抜は好きなようにして良いと伝えてある。


 リンが視線を向けた窓の外では、色とりどりの小鳥達が、美しく整えられた庭園を、楽しげに飛び舞っている。
  
 ーーー あれ程自由が似合う人間を、閉じ込めてしまうのは辛いが、飛ぶ鳥は羽を押さえておかなくては、
 飛び去るいつかに脅えていなくてはならないからな… ーーー

 今のリンには、欲しいものを得る為には、そんな方法しか浮かばないのだから…。





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